“正しさ”と“納得”の乖離=生きづらさ?

ブログへの訪問をありがとうございます!

今日は一日暖かく穏やかな天気でしたが、皆さまはいかがお過ごしだったでしょうか?

さて、先日、私のブログを読んでくれている超貴重な方から『何で加藤は仕組みづくりばかり提案するの?』と質問をいただきました。

いわゆる『区民の声』を反映させなければ支持が得られにくいのではないかという気遣いからのコメントです。

質問とご意見をに感謝し『なるほどそういう考え方もあるなぁ』と納得すると同時に、今回は私が区民の声でなく区政調査結果を重視し、仕組みで区政を考え提案していたかについて、そして、いわゆる中間組織の弱体化によってどのように制度再設計が必要かについて書きたいと思いました。

お時間のある方にお読みいただけたら幸いです。

 

【中間組織の重要性】

結論から書いてしまうと、私が区民の声を強調しながら様々な提案をしないのは“町会・自治会など中間組織と深く繋がっていないから”です。

区議会銀は(本来)44名の議員で構成されており、それぞれが強みを持っています。

その中で、地域に根付き丁寧に声を聴いているのは町会・自治会や地域の企業団体と繋がりの深い自民党会派さんを置いてないと感じています。

さらに、議会控室に電話番を設け、そこから漏れた声を丁寧に聞き取り対応されている会派は(私の知る限り)2つあります。

私の所属する町会は町会長がとても寛容な方なため、町会の会合にはお声をかけてくださいますが、基本的に町会・自治会の課題や要望を受けることはありません(ちゃんと受け皿となっている議員さんがおられます)。

そのため、私が現場の総意を聞く機会があるのは、10年以上自分が関わっている高齢者介護のケアマネジャー部門と地域活動団体のみです(ケアマネジャーの要望は年1回の現況調査で区内在勤の全ケアマネジャーを対象とした調査結果からの要望を聞いています)。

基本的に、それ以外の困りごとの相談を受けた際は対応しつつ、世論調査やさまざまな分野の現況調査で“この困りごとは区民の大半が抱えている困りごとか、それとも個別の困りごとか?”を調べます。

わかりにくいかもしれませんが、このように私は本来“区政に提案するときは区民や関係機関の総意を取り扱う”ことにしていたわけです。

もとい、きめ細かい区政を実現するには個人と行政をつなぐ“中間組織”が何よりも重要であり、ここが壊れると行政サービスは画一的になってしまうと考えているため、中間組織をすっ飛ばして一区民の声を『江東区民の総意』にするのは、なんか違うと思うのですよね。

中間組織の重要性は先日しつこいくらいに書きましたが、私は中間組織の機能をこれからも江東区に必要だと感じているため、個別相談に対応することはあってもそれを政策提案や要望につなげることは慎重になっていたのです。

だけど、その方法では中間組織の機能低下に伴いなんか違うのではないかと思うようになったわけです(あ・・・これ、また長文になるフラグだ)。

 

【中間組織が弱まることで起きること】

従来の区政で機能していた『正しさ』は以下の3つだと私は認識しています。

1. 手続きとしての正しさ(行政として“間違えない”正しさ)

→法令に適合している、前例やルールに沿っている、公平性・平等性が担保されていることなどで、ここが崩れると、行政は一瞬で信頼を失います。

2. 多数意思としての正しさ(民主主義的な正しさ)

→アンケート、パブコメ、陳情・要望件数など説明責任の際に用いることが多いです。

3. 効率・成果としての正しさ(経営としての正しさ)

→費用対効果、KPI、数値改善など、ざいすぇい制約が厳しくなるほど重みを増してきた軸だと認識しています。

従来は、この3つの正しさで行政は動いても地域が壊れることはありませんでしたが、今の社会では『手続きも正しい、多数意思にも沿っている、数値上も効率的』でも人が零れ落ちるという状況が生まれています。

その理由を昨年は悶々と考えていたのですが、私が出した仮説は『正しさと納得の乖離を埋めてくれる人がいなくなってきているから』と結論を出しました。

正しさ(行政的合理)は、法令に適合しているか、公平であるか、多数意思に沿っているか、効率的であるか、など主に「外形基準」で決まります

つまり、第三者が見て説明可能な合理性であり、行政が「説明責任」を果たすための概念です。

一方、納得(人間的実感)は、自分は見捨てられていないか、不運ではなく排除ではないか、自分の物語として理解できるか、など「内面基準」で決まる。

つまり、当事者が“意味づけできるか”であり、これは数字でも制度でも測ません。

この『正しさと納得の乖離を埋めてくれる人(正しさと納得の通訳者)』がいわゆる中間組織だったと考えているのです。

彼らは、制度の正しさを生活の納得に言葉と行為で変換してくれていたのです(私が中間組織を尊敬している理由はここです)。

たとえば、「制度上は対象外だけど、今回は地域でフォローするよ」など、この非公式な緩衝が、乖離を吸収していたわけですね。

 

一般的な話になりますが、人がこぼれ落ちる際、当事者の中ではこういうプロセスが起きます。

1.「困っている」

2.「相談する」

3.「制度説明を受ける」

4.「要件に合わない」

5.「正しい説明をされる」 ※以下1に戻る

ここで問題なのは説明が正しいほど、傷が深くなることです。

間違っていない、冷静、公平。

だからこそ『私は、正しく切り捨てられた』という感覚が残るのです。

その際、不満(改善を期待している)であれば改善の余地はありますが、不信(期待そのものを放棄している)は改善するのがとても困難になります。

なぜなら、正しい説明を受けて要件に合わなかった際『この社会は、私が存在しない前提で作られている』と認識する以外になく、その認識をフォローしてくれる人がいないからです。

これは怒りより深く、現代の悩ましい事象であり、さまざまな課題を生んでいると感じています。

※この部分においては、行政の職員さんも感じる部分があるはずです(現場職員は目の前の人に共感するが、組織としては正しさを守らねばならないため、結果として、職員が感情を切り離して仕事をするようになるという、組織にとっても長期的には損失な乖離)。

 

【設計を見直す☆】

なんかこんなことを書いていると行政批判のように読めてしまうかもしれませんが、そうではありません。

ここは強調したいのですが、正しさと納得の乖離は、誰かが怠けたからとか行政が冷たいからではありません。

社会が複雑化し、全員を同時に納得させることが不可能になった結果なのです。

善し悪しの判断はせずに、まずはこの現状を理解し受け入れる。

 

そのうえで考えるべきことは、乖離をなくすことではなく、乖離を見える化し乖離があることを前提にその衝撃を和らげる設計でないかと私は考えるわけです。

つまり、事前に「零れ」を想定し、逃げ道を用意したり行政が直接やらなくていい余白を残すことが必要なのではないかと考えるわけです。

 

ここで今一度まとめます。

正しさと納得の乖離とは、社会が「正しく説明できる」ことと、人が「生きやすいと感じる」ことが別々の論理で動き始めた現象。

だからこそ、この状況を理解し政策を考えると、“正しさを振りかざさない、しかし曖昧にもならない”という、かなり高度なバランスが取れる。

 

本来、区政における正しさとは、『間違えないこと』ではなく、『壊れないこと』です。

法的に正しい、多数派に支持されている、効率も良い。

それでも社会の接着剤を溶かしてしまうなら、正しさは未完成になります。

現代行政の課題は、説明可能性だけでなく受容可能性を設計すること。

江東区ではこれが実現できるよう、微力ながら無い知恵を絞ってこれからも考え提案していきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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