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今日は、来年度予算審査特別委員会最終日でした。
様々な角度から質疑答弁がなされ、結果的には、一般会計、特別会計すべて賛成多数で、区長提案のとおり可決されました。
議員はもちろん、出席された理事者の皆さま、お疲れ様でございました。
さて、連日、10時から17時までしっかりと議論されていましたが、最終日の今日は14時45分過ぎに終わったため、余裕をもってブログを更新できます。
そこで、公平と平等を絡めながら、今後の区政における考え方について書きます。
また、前段(!?)として、格差や能力主義について書きます(あぁ、なんだか長くなる予感しかしませんね)。
では、行ってみよー☆
【見方①】
2021年に小学館新書から出た橘玲氏の著書、『無理ゲー社会』の中で、公平と平等について書かれていますが、まずは、これを参考に話を進めますね。
まず、『公平』と『平等』の定義についてですが、書籍では、この違いを徒競走の例で説明しています。
公平(機会の平等):同じスタートラインに立つこと
平等(結果の平等):結果が同じになること
ここで悩ましいのは、能力差がある限り、両者は原理的に両立しないという構造的矛盾です。
同じスタート位置から走らせる(公平)→結果は能力差によって違う(不平等)。
結果を揃えるためにハンデを付ける(平等化)→スタート条件は揃わない(不公平)。
これは、現代の格差・能力主義(メリトクラシー)社会を説明するための基本ロジックで使われています。
ざっくり書くと、橘氏の主張はこんな感じです。
社会は『機会は平等に開かれている』と見える(公平)とされるが、人々の能力値は生まれつき・環境等で大きく異なるので結果は大きく差が出る(不平等)。
この構造が『無理ゲー社会』である根本的な理由だ、というこの能力社会の理不尽さを説明する中で、公平を徹底すると不平等は避けられないという冷たい現実を受け入れるべきだ、と主張しています。
つまり、構造的に両立しないものを両立させようとする幻想をやめようというスタンスですね。
これは、真実ではありますが、とても厳しい現実を突き付けています。
【見方②】
能力主義について主張している人と言えばマイケル・サンデル氏が有名ですが、氏は違う視点から主張しています。
2023年に早川書房から出版された『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の中で、能力主義の視点からまとめますね。
ちなみに、一般的な能力主義とはこんな感じです。
努力して勉強する→能力を身につける→その結果、成功する→成功した人は高い地位やお金を得る。
つまり、『努力した人が成功する社会は公平で正しい』という考えです。
これに対しサンデル氏は、『能力主義は本当に正しい社会なのか?』という問いを投げかけています。
彼は、『成功は努力だけで決まるわけではない』ということを指摘しています。
いわゆる成功には、本人の努力だけではなく、環境、才能、運が大きく関係しているという、成功は『完全に自分の手柄』とは言えないというのが出発点です。
ここでサンデル氏が最も問題にしたのは、『勝者は傲慢になりやすい。そして、敗者は屈辱を感じやすい』という考えが進むことで、社会の分断が進むことです。
社会は、多くの仕事で支えられています。
それなのに、『成功した人だけが偉い』という考えが強くなると、社会の絆が壊れてしまう。
これがサンデル氏の警告であり、『努力すれば成功できる』という社会の物語を疑い、社会の連帯を取り戻そうと訴えているのです。
【面白ポイントはココ】
私が面白いなと感じているのは、同じ問題(能力主義)を見ているのに結論がかなり違うという部分です。
橘氏は基本的に社会の構造分析をしており、社会はそもそも平等にはならないという現実をまず受け入れよう、というスタンスです。
一方で、サンデル氏は倫理・哲学の立場から、能力主義は人を傷つけると批判しています。
続いて、能力主義への態度としても大きな違いがあります。
橘氏は、格差の痛みは認めつつ、能力主義を前提に設計するしかないという立場です。
対して、サンデル氏は、能力主義は危険な思想だとし、努力した人が成功する社会は、実は人を傷つける社会でもあると、またしても批判に徹しています。
その上で、解決の方向についてですが、橘玲は、完全な平等は不可能であり格差は避けられないのだから、その前提で、現実的な制度設計の構築を提案しています(社会保障のあり方、ベーシックインカムの導入、等)。
一方で、サンデル氏は、社会の価値観の転換を主張し、重要なのは、謙虚さ、連帯やすべての仕事への尊敬などであり、社会の道徳を修復することを提案しています。
先ほども『面白い』と書きましたが、2人とも実は人生には運の要素が大きいという部分において、同じことを認めています(しかも、2人ともこれを否定していない)。
ただし、橘氏が『だから制度を現実的に設計しよう』と提案するのに対して、サンデル氏は『道徳心の修復』という精神論の提案と結論が違う。
これは、どちらが正しいとかそういう話ではなく、どの視点で考えるかによって主張や結論は変わるということがよくわかる事例だな、と思い、取り上げてみました。
【区政の悩ましさ】
長々と書いた前置き(!?)を基に、区政を考えますね。
私は、区政を考える時に必要な視点は、
行政は持続可能な最大幸福を目指す(功利主義的、長期的)
ただし配分は公平であるべき(必要に応じた配分)
であると考えています。
この視点で悩ましいのは、最大幸福の測定が難しいということです。
幸福実現には、短期的幸福(今の有権者の満足)と長期的幸福(人口構造の持続可能性)がありますが、政治はどうしても前者に引っ張られ傾向があります。
・・・といっても、支援団体や選挙の関係ですが、それを否定するつもりはありません。
現に、令和8年度の予算案のテーマは『一人ひとりの「今」に寄り添い歩みを進め、笑顔輝く未来へ』となっており、これは、今住んでいる区民の声を最大限聞きますよというスタンスも現わしていると私は理解しています。
そこで出てくる意見について、悩ましいのは『公平と言いながら平等性を求めた意見』です。
具体的には、いわゆる富裕層が『平等』を求める傾向が高まっている状況についてです。
ただ、私は高額納税者が求めているのは、実は『平等』そのものというより、負担と給付の対称性による『不公平感』だと感じています。
税金をたくさん払っているのに、自分は給付対象から外れる。
自分も生活に余裕がない中、生活コストは必死に捻出しているのに恩恵を受けられない。
このことに対する『不公平感』です。
ここを放置すると、再分配への支持が崩れることがわかっているからこそ、政治は一律給付に流れやすいのだと理解しています。
怖いのは、それが善意で進むこと。
誰も悪意はない。
みんな『公平に』と言っている。
でも実質は『私も対象にして』(平等)。
ここで、区民の想いを理解しつつ同時に私が懸念するのは、『公共という概念そのものが、私的な損得計算に溶けてしまうこと』です。
平等を区政に取り入れ一律化すると、予算が広く薄くなるため、本当に困窮している層への厚みが減ったり、財源が枯渇するのではないかということです。
同時に、今回の流れを成功事例として、中間層も富裕層も『私も(支援)対象として』となってしまうという、典型的なポピュリズム型財政構造にならないかということです(まぁ、当区の区民や議員の方々はしっかりされているので、そのような方向には走らないと思いますが)。
※繰り返しますが、これは、声を挙げている方々への批判ではありません。
【マインド転換しませんか?】
いま起きていることは、誰かが悪いという話ではないです。
区民は自分の生活を守ろうとする。
議員は有権者の声を拾う。
行政は制度を安定させようとする。
それぞれが合理的に行動しています。
でもその合理性が積み重なると、要望は「対象拡大」へ向かい、政策は「一律化」へ向かい、予算は「広く薄く」になるなど、この流れは自然発生的に起きる。
いわゆる『合成の誤謬』ですね。
だからこそ、今必要なのは、『誰かを責めること』ではなく、判断の軸を共有し直すことだと思うんですよね。
マインド転換とは、感情を変えることではなく、『損得』から『目的』へ、『対象の広さ』から『効果の深さ』へ、『今の満足』から『長期の持続』へ視点を移すことです。
つまり、どれだけ配るかではなく、何を守るための政策かを問うということです。
この問いを共有できるかどうかが、三方よしを行うための鍵だと考えています。
【結論】
そんなわけで、私の結論としては、区政への視点はこのようにまとまりました。
原則:公平(必要に応じる)
目的:長期的最大幸福
ただし:政治的納得を無視しない
この三角形の中でバランスを保ちながら設計するしかないと考えています。
個人は短期視点で考える。
政治は中期視点で揺れる。
行政は長期視点を守る。
ここが壊れないよう、それぞれの立場を理解しつつ、『最適解を模索する』ことが何よりも大切だと感じています。
今さらになりますが、行政の本来の役割は『みんなが安心して暮らせる社会を、長く続けるために仕組みをつくり、動かすこと』です。
区政は、みんなの希望をそのまま叶えるものではありません。
社会全体がうまく回るように、バランスを取り続ける場所です。
そして本当に大切なのは、『今の満足』だけでなく『未来の安心』も守ること。
これが行政の根本的な使命であり、区民と行政をつなぐ議員として、両者の視点を大切にしながらバランスの取れた質疑をしたいと、改めて感じたのでした。
【まとめ:語り口調で書いてみる】
私たちが行政に携わる目的は何でしょうか。
それは、区民一人ひとりの生活を守り、このまちを将来にわたり持続可能な形で発展させていくことにあると私は考えます。
近年、さまざまな支援策について『より広く』『より多くの人に』という声が高まっています。
区民の皆さまが自らの生活を守ろうとするのは自然なことであり、その声に耳を傾けることは議会の重要な役割です。
しかし同時に、私たちにはもう一つの責任があります。
それは、限られた財源の中で、社会全体にとって最も効果的な使い方を選択する責任です。
ここで大切になるのが、『平等』と『公平』の違いです。
平等とは、すべての人を同じように扱うことです。一方で公平とは、それぞれの状況や必要性に応じて支援を調整することを意味します。見た目には平等の
うがわかりやすく、納得感を得やすいかもしれません。しかし、すべてを一律に広げていくことが、本当に区民全体の幸福につながるのかという問いは、常に持ち続けなければなりません。
もし支援を広く薄く配分すれば、確かに対象者は増えます。しかしその結果、本当に困難な状況にある人への支援が十分でなくなる可能性もあります。行政の使命は『配ること』そのものではなく、『社会を支えること』にあるはずです。
また、財政には限界があります。今の世代の満足だけでなく、将来世代への責任も同時に考えなければなりません。
持続可能性を欠いた政策は、いずれ必ず見直しを迫られます。そのとき負担を負うのは、次の世代です。
私たちが目指すべきは、対立ではなく共有です。
支援を求める声も、財政の持続性を重視する声も、どちらもこのまちを大切に思う気持ちから生まれています。
だからこそ、政策を検討する際には、
・その支援は何を目的としているのか
・どの層に最も効果があるのか
・長期的に持続可能か
この三点を共通の基準として議論することを提案します。
公平性とは、誰かを切り捨てることではありません。
限られた資源を、社会全体の最大幸福につながる形で配分するための原則です。
私たちは今、まだ選択できる段階にあります。
将来世代に誇れる判断を積み重ねていくためにも、感情的な対立ではなく、目的に基づく冷静な議論を重ねていきたいと考えます。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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