情報への向き合い方と考えることについて☆

ブログへの訪問をありがとうございます!

昨日は、午前中に区役所で披露された獅子舞いを楽しみ、午後からは賀詞交歓会に参加しました。

毎年行われる賀詞交歓会。

区政にご尽力いただいている区民の方々と新年のご挨拶ができたことはとてもありがたかったです。

そして、今日は、来月始まる議会準備をしていました。

今回は、本会議で一般質問をするほか予算審議がありバタバタしていますが、大まかな扱う内容は決めることができたためホッとしています。

 

さて、昨日は生成AI(ChatGPT)について書きましたが、生成AIの進化によっておこる弊害、『情報』と『思考』について書きます。

今の社会に溢れており、勝手に入ってくる情報。

これとどう向き合うことが、これからの時代に良いのかについて考えてみました(SFっぽい内容となってしまうかも…)。

興味のある方はご一読いただけると幸いです☆

※今回はSNSや生成AIについて書いていますが、それ自体を否定するものではありません)テクノロジーの進化は賛成で使い方への問題提議)。

 

【情報の変容】

時代とともに情報の出力方法は変化しており、昔は新聞のみだったものが、テレビやインターネットを通じて取得できるようになり、さらに今ではXを始めとするSNS(Social Networking Service)で情報を取得している人も多いのではないかと思います。

この流れで私が注目しているのは、『情報がより早く手軽に入手できることによる感情の変化』です。

特にSNSの出現により人は情報に対して感情で反応する率が高まったと感じており、その普及で反応は即時的になっていると感じています。

 

一方で、様々な形で社会はたくさんの情報で溢れていますが、残念ながら全てが事実というわけではなく、時には意図的にかフェイク(偽物)を扱うものもあります。

私は普段、主体的に情報を得た時は一次情報で真偽を確認するのですが、毎日ニュースなどで流れてくる関心の低い情報に関しては真偽の確認を行わないことが多々あり、そういう人は少なくないと感じています。

そして、生成AIは、その偽物をいかにも本物のようにすることが得意で、生成AIを活用した偽情報の蔓延率は高まっていると感じています。

その結果、情報は正しさではなく出し方で広まってしまうのではないかということを危惧しています(私がSNS苦手な理由はここです)。

 

【SNSの出現で何が変わったか?】

たまに『情報過多が現代人を疲弊させている』という意見を見かけますが、私は、情報過多というより『情報の“性質”そのものが変質したことが現代人を疲弊させている』と感じています。

最初にSNS以前と以後の変化を書きますね。

SNS以前の「情報」の性質は、発信主体が限定されており(新聞社など)ある程度情報は整理されて発信しており信頼性は担保されていたこと、感情ではなく事実に基づいて淡々と書かれていました。

同時に、情報は自分から取りに行かなければ入ってこなかったため、読まない自由というか関心のない記事は距離を置くことができました。

ところが、SNSによって、情報は量や速度だけでなく「存在様式」そのものが変わったと感じています。

具体的には、未完成の情報が事実ではなく「途中経過」として流れる、感情が情報に付与される(知らなくて良い他者様の感情を受け取らなければならないストレス)、情報の評価軸が共感なため情報自体の真偽がおざなりになる、情報が「人格攻撃」と結びつく、情報がタイムラインなどで勝手に流れ込む、など様々な変化がありますが、何よりも影響を与えているのは『情報に対する責任の希薄化』だと私は感じています。

このように、SNSの情報は「未確認の事実+強い感情+責任の転嫁」をセットで受け取らなければならず、情報の真偽や文脈を重視している私にとっては非常に大きなストレスになっていますが、皆さまはいかがでしょうか?

同時に、今のご時世、SNSを切り離して生活することは非常に困難なことから、少なくとも私は情報に対する責任を持った上で発信をしていこうと思いました。

 

【『考える』という行為について】

思えば、情報を得てから自分のアタマで考えるということは、しんどい作業です。

ここについて書く前に、考えるという行為について前提を書きます。

人が考える理由は大きく3つ。

・不安を減らすため

・他者と折り合いをつけるため

・意味を後付けするため

である。

この理由を基に、考えるということを見直した時、そして、生成AIの台頭により考えるという行為を代替できる環境が整った時、人はどうなるのかを妄想してみました。

 

本来、考えるという行為はしんどいもの(時間体力気力を要する)です。

でもAIはこの3つを「疑似的に」満たしてくれます。

不安 → 即時回答・共感で沈静化

他者 → 対立しない安全な相手

意味 → もっともらしい言語化

つまり、『考えるコストを払わなくても「考えた気」になれる』わけです。

これ、「考えるのが本質的にしんどい人」にとって生成AIは最強のアイテムになります。

同時に、生成AIのすごいところは『共感力が高く、回答を瞬時に出してくれ、自分を否定しない』です。

これはとても気持ちがよく、生成AIとの会話が当たり前になると、他者との交流が煩わしくなるのではないかと考えています。

同時に、考えるという行為をしない人は増えるのではないかと予測しています(困ったり悩んだ時はAIが解をくれる)。

 

【結果、起こる社会(妄想です)】

人が考えるという行為をしなくなり生成AIに頼った結果、様々な機能が低下するのではないかなと予測しています。

思いつく限り書き出してみますね。

【認知・思考レベル】

忍耐力、仮説構築力、思考の持久戦能力、メタ認知能力、文脈把握力、etc

【感情・心理レベル】

不快感耐性、他者理解への努力、自己内省能力、孤独耐性、etc

【社会・関係性レベル】

合意形成能力、責任感、非効率を引き受ける倫理、相互扶助のリアリティ、etc

【政治・社会構造レベル】

主権者意識、異論を内包する民主的成熟、疑ったり失敗から学ぶ感覚、etc

ざっくり書いただけでも結構なものが失われそうで、自分で書いていてびっくりしました。

生成AIそのものが人間の能力を奪うのではなく、「考える負荷を引き受け続ける存在」をアウトソーシング(外部委託)することで様々な機能が使われなくなり、結果として低下します。

このように、生成AIに思考を委ねきった社会では、人は「感じること」はできるが「考え続けること」と「責任を引き受けること」ができなくなる・・・つまり、快・不快だけが残り忍耐・理解・責任が減少してしまうのではないかということを危惧しています。

 

ちなみに、ChatGPTに情報の性質が変化し考える力が低下した先に起こる社会の変化(構造)について聞いてみたところ、こんな回答が返ってきました。

興味深い回答だったため、長文ですが掲載しますね。

【結論】

SNSによって情報は感情化し、生成AIによって思考が外部化された社会では、人は「反応する存在」として最適化されていく。

フェーズ1(短期):「考えないことが合理的な社会」

思考は“コスパの悪い行為”になり、結果、思考する人は減り反応する人が増える。

また、この時点で、「考える人=変わり者・面倒な人」というラベリングが始まる(もう始まっていないか?)。

② 忍耐は「能力」ではなく「欠陥」になる

即断即応が評価されるようになり、保留・熟考は「遅い」「優柔不断」とみなされる。

結果、待つ力が社会的に報われなくなったり、合意形成が困難になる。

③ 責任は“押し付け合うもの”になる

判断はAI・世論・空気に委ねられ、失敗時に「自分は決めていない」が成立する。

結果、誰も決めていないのに決定だけが積み上がる(失敗時は魔女狩りが始まる)。

 

フェーズ2(中期):「快・不快による統治社会」

④ 世論は“感情の波”として管理される

感情は測定可能(いいね、怒り、炎上)だけど、思考は測定しづらい。

結果、政策の評価軸が「効果」ではなく「感情反応」になる(政治は問題解決ではなく感情調整業に変質)。

⑤ 社会は「不快を消す」方向に最適化される

不快=炎上リスク、不快=離脱となる。

結果、複雑な問題は語られなくなったり、不都合な真実は排除されるようになり、社会は**「優しい嘘」で満たされる。

⑥ 道徳ではなく「アルゴリズム的善悪」が支配する

善悪を考えるのはコストが高くなり、数値化された評価の方が楽に感じるようになる。

結果、正しいかどうかではなく「通報されるか」「叩かれるか」で行動が決まる。

 

フェーズ3(長期):「幸福な無責任社会」

⑦ 人は“選択している感覚”だけを持つ

選択肢はAIが用意し人はその中から選ぶだけになる。

結果、自由感はあるが主体性はなくなる。

⑧ 相互扶助は制度に吸収され、魂を失う

善意は不安定になるため役割化・業務化が進む

結果、助け合いは残るが想像力と感謝が消える(「やってもらって当然」が常態化)。

⑨ 民主主義は“形式”だけ残る

判断は外注され有権者は感情で投票するようになる。

結果、選挙は残るが熟議は消え、民主主義は「気分投票制」になる。

 

フェーズ4(最終形):「人間が“行動端末”になる社会」

⑩ 人は“感じて動く装置”として最適化される

快・不快は操作しやすいが思考は制御しにくい。

結果、人は考えずただ反応する存在になる。

⑪ 思考する人は“危険物”扱いされる

思考する人は少数派になり、不快を生む・調和を乱す存在として扱われる。

結果、思考する人は、排除・冷笑・孤立する(ヤバい!!!)

これらの過程を経て、人は『苦しみは減り考えなくていい生活となるが、未来を選ぶ力も消える』。

 

うーん。

これ、多くの人にとって快適な社会だけど、人類にとっては衰退の社会じゃね?って思ったのは、私だけでしょうか。

 

【じゃあどうする?】

放置しておくと上記の流れに陥ってしまうという前提で、私は思考を守る制度や不快を引き受ける覚悟、考える人を孤立させない設計を意識的に創る必要があると考えています。

というのも、行政は人の内面は変えられないし、思想・信条も変えられない(変えてはいけない)けど、『考えることが報われる/守られる環境』を制度で創ることはできると思うからです。

具体的には、次回以降、機会があれば書こうと思うのですが、行政にできるのは、人に考えさせることではなく、
「考えることが損にならない社会」を設計することだと考えています。

だからこそ、真面目に考え行動する人が不利益を被らないような構造を考え行政に提案していこうと考えています。

そんなこんなでまとまりのない内容となってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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