ブログへの訪問をありがとうございます!
先週金曜日に書いたブログを下書きで保存してしまい、アップしていなかったことに、今日午後気づいたワタクシ。
慌ててシレっとアップしてしまいました。
さて、今日は一日中福祉分野の計画を読んでいて疲れたので、全く関係ない話・・・考えるということについて書いてみたいと思います。
テクノロジーの進化や組織の構造によりにより、私たちは『ものを考える』ということをしなくても生活できる環境が整いつつありましたが、AIの出現により『自分で考えなくてもよい環境』が整備されました。
私自身はテクノロジーの発展には賛成でAIの出現も大歓迎ですが、使い方によっては『思考力』や『責任感』が欠如してしまう恐れがあると感じており、どういう付き合い方をすればよいのか模索中です。
そんな思考について考えているとき、ふっと浮かんだのが、ハンナ・アーレントの言った『悪の凡庸』という言葉です。
これは、主に個人ではなく組織に属しているときに起こりがちな状況に対しての警告となりますが、今の社会で改めて考えた方が良い言葉だと感じました。
そんなわけで、これは私自身の頭の整理となりますが、興味のある方のみご一読いただけたら幸いです。
では、行ってみよー☆
【ハンナアーレントって?】
ハンナ・アーレントはドイツ生まれの政治哲学者です。
思考することと責任や行為の倫理を根本から問い直した方ですが、全体主義の分析や「悪の凡庸さ」という言葉で知られています。
この悪の凡庸という言葉は、様々な誤解を生み多くの批判もあったのですが、彼女が言いたかったのは『巨大な悪は、必ずしも悪魔のように残虐な人間から生まれるわけではない』ということです(著書『エルサレムのアイヒマン』より)。
つまり、ごく普通で、平凡で、思考停止した人間が、何の疑問も持たずに役割をこなすことで想像を絶する悪が実行されてしまうことを主張したわけで、同時に、彼女が恐れていたのは『悪を行うために、悪意や憎しみは必ずしも必要ない』ということです。
『ルールだから』『上司が言ったから』『みんなやっているから』『仕事だから』などなど。
こうした理由で、人は自分が加害者であることすら自覚せずに、とてつもない悪を実行してしまう。
つまり、悪は“特別な人間の問題”ではなく、“誰にでも起こりうる問題”であることを忠告しているわけです。
私は彼女の『考えることをやめた瞬間、人は悪に加担する』という思想に100%同意はしませんが、『思考することそのものの重要性』には同意しています。
自分は何をしているのか、それは誰を傷つけるのか、もし自分が相手だったらどう感じるか、などなど。
こういうように、問いを手放さないこと(考えること)が社会的動物である人間には必要なスキルだと思っています。
【時代の過渡期】
さて、私はこのブログでも時々『時代の過渡期』という言葉を使いますが、それは単に『変化が速い時代』ではありません。
私の言う時代の過渡期とは『何が正しいかを判断するための共通の基準が失われている状態』を指しています。
その上で、今の社会における思考について書いてみますね。
国家は絶対ではない
市場も正義を保証しない
科学も価値判断はしない
SNSは合意を作らない
このように、今の社会は思考の“地面”がない状態だと私は感じています。
基準がないと、人はどの価値も相対的に見えるし、どの判断も不完全に思えるし、間違うリスクばかりが見えてしまいます。
結果、判断を先送りすることが、最も合理的な選択に見えるという現象に陥ります。
ちなみに、これは誠実な人ほど陥る罠だと私は捉えています。
また、考えすぎも芳しくない結果を生むことがあります。
『まだ考えるべき点が多い』『単純化は暴力だ』『拙速な判断は危険だ』など結論を出したり判断することに慎重になることは大切ですが、過渡期では、思考それ自体が責任回避の言語になる恐れがあります。
そんなこんなで、改めて思考というものを悪の凡庸の視点でとらえた時、今の社会は有効どころか当時より拡張された形になっていると感じています。
つまり、(アーレントのいう悪を用いると)今の悪は、「考えない個人」プラス「考えなくてよい構造」が生じていると思うわけです。
【考えなくてよい構造】
上記に加え、今の社会は、『判断を人から切り離して運用できるようにする仕組み(構造化)』になっていますと書きましたが、これは『誰も責任を取らなくてよい仕組み』になるリスクを孕んでいると感じています。
と言ってもわかりにくいと思うため、最近読んだ本を参考に、ある程度以上の規模の組織を想定して具体的に書きますね。
※個々人がどうのこうのという話ではなく、組織を否定するものでもなく、現代の流れとして理解していただけたら幸いです。
1.分業が「意味」を分断する
業務が細かくなってしまうと、各人が扱うのは「部品」だけになります。
例えば行政の場合は、申請書の形式チェック、要件該当の判定(Yes/No)、通知文の発送、不服申立て窓口というように、作業は細かく分かれ各役に担当者が付きますが、このとき、誰も「この判断が人の人生に何を起こすか」を最後まで見えなくなります(ここで“責任”が消える。)。
結果、何か問題が起きたとき、『私は規定どおり見ただけ』『私は数字を作っただけ』『私は通知を出しただけ』という言葉が通ってしまうことになります。
2.ルールが「考える代わり」になる
本来、ルールは“考えるための補助輪”なのに、過渡期では逆転しがち。
例外が増える、炎上や訴訟リスクが上がる、公平性の説明が難しくなるなど、社会が複雑になるほど、組織は、説明しやすさを優先しルールを固くします。
結果『規則だから』で思考が停止しても組織としては安全となり、逆に、考えて臨機応変に対応すると個人が危険にさらされます(責任を被ることになる)。
このように、組織の構造は“考えるほど損”というインセンティブが生まれてしまうわけです。
3.KPI・ノルマ・監査が「善」を狭くする
測れるものだけが「成果」とされ、測れないもの(人間的影響)が消えるようになると、本質を見失う恐れがあります。
例えば、処理件数、期限遵守率、ミス率、コスト削減、問い合わせ削減などなど。
こういう指標は大事ですが、行き過ぎると「人を救う」より「数字を守る」ほうが正義になってしまいます。
しかも監査や評価が強いと、指標に合わない配慮は“勝手なこと”とされ、指標に合う不親切は“優秀”になりやすくなり、結果、思考は「余計なこと」に落ちてしまいます。
4.「最終判断」が形式化して、誰も決めていない状態になる
会議・稟議・合議・承認フローが増えると、決定までの流れはこのようになります。
皆が関与した→でも皆が微修正しただけ→結果として“誰も決めていない”
組織の言葉で言うと、『総意』『適切にプロセスを踏んだ』という何とももっともらしい言葉で表現されます。
でも現実は、責任が合成されてわからなくなるわけで、ここまでくると、人は自分の判断を持ちにくくなります。
5) テンプレが思考を置き換える(言語の劣化)
『決まり文句』は人の思考を休ませます。
『総合的に勘案し』『遺憾ながら』『適切に対応』『想定の範囲内』『丁寧な説明」などなど。
これ自体が悪いわけじゃないのですが、テンプレが増えるほど、実態の吟味、他者の視点、自分の言葉で語るということが減ります。
そして、言葉が空っぽになると倫理も空っぽになりやすいリスクが高まります(決まり文句に倫理は不要だから)。
6.距離が「痛み」を消す(被害の不可視化)
現代の制度は、リアルな影響が見えないようにできていることが多いです。
画面の向こうの人、書類上の「対象者」、データ上の「ケース」、番号で管理された生活などなど。
すると、人ではなく案件を処理することになりやすいのです。
これは福祉・入管・税・警察・教育・医療・プラットフォーム運営、どこでも起きうる事象だと感じています。
7.アルゴリズム/システムが「判断」を外部化する
今の「考えなくてよい構造」を最も加速させるのがこれです。
点数化(スコアリング)、しきい値(閾値)、自動フラグ、テンプレ判定が入ると、現場は『システムがそう言っている』『モデルの結果だから』『基準値未満だから』となり、判断の理由”ブラックボックスでも運用できてしまいます。
つまり、説明できないのに執行できるわけで、執行できるのに、誰も意味を理解していないという状況になってしまうのです。
8.恐怖(炎上・訴訟・失点)が思考を萎縮させる
過渡期は『間違い』が許されにくくなります。
例外対応が不公平だと叩かれる、正しい説明ができないと責められる、一度の失点でキャリアが終わる、などなど。
すると組織の合理性は『正しいより安全』『善いより守れる』になり、これが定着すると、個人は『考えないほうが安全』になります。
9.「役割人格」が倫理を奪う
組織は「役割」によって人を守りますが、同時に、役割が強すぎると、『私は窓口なので』『私の所管ではない』『権限がないので』などの言葉が出てきます。
本当は、権限がない中でもできること(情報の橋渡し、問題提起、記録、改善提案)はあるのですが、構造が硬いと役割は免罪符になってしまうのです。
【いったんまとめよう】
このように構造が危ないのは、悪意がなくても、“影響が見えない”“意味が分断される”“理由を問わなくてよい”“考えると損”“責任が不明瞭になる”などが揃うからです。
このとき起きる悪は、派手ではありませんが積み重なるとこんな感じになり悩ましさを生みます。
排除が「仕様」になる
不利益が「公平」に見える
苦しみが「データ」になる
見分けるチェックリスト(実務で効くやつ)
ちなみに、考えなくてよい構造が強い現場ほど、次の言葉が増えると言われています。
「規定なので」(理由の停止)
「前例どおり」(更新の停止)
「所管外」(関与の停止)
「システム上」(理解の停止)
「総合的に」(説明の停止)
「エスカレーションします」(自分の判断の停止)
「監査が…」(恐怖による停止)
書きながら、私自身こんな言葉や事象に陥っていないか確認しました。
【じゃあどうする?】
この現状に対してどうすればよいのかですが、答えは簡単で思考停止になってしまう部分を解決する方法を提供すればよいのです。
例えば、影響の可視化(結果を担当者が定期的に見る仕組み)、例外の正当化プロトコル(「例外=悪」ではなく「例外=説明責任」で運用)、理由の記録(Yes/Noだけでなく「なぜ」を短文で残す)、反対役の制度化(会議に“反証係”を置く(個人の勇気に依存しない))、KPIの二重化(処理速度だけでなく、救済・納得度・再申請率などの“人間指標”も入れる)、ブラックボックス禁止領域(説明不能な自動判定は、少なくとも“救済の窓”をセットで義務化する)、などなど。
ただ、区政で考えたとき、江東区の現職員体制では実現は難しいと感じています。
なぜなら国から降りてくる事案が多すぎて、職員の方々はそれをこなすだけでいっぱいいっぱいになってしまっているからです(行財政改革の負の側面ですね)。
江東区の職員の方々は本当にまじめで、努力義務でもしっかりと対応するくらい遂行能力が高いです。
だからこそ、(本意ではないのに)先ほど書いた組織状況に陥るリスクが高いと感じています。
一方で、(少し前に書きましたが)江東区は行財政改革計画(後期)で、職員の働き方を見直すことに取り組んでいると書かれています。
ここに期待しつつ、私自身が本当の意味で最大効果の組織づくりを考えると同時に、職員自身が内部で言いにくいことがある時は議員を上手に使って問題定義できるように、現状や課題について調査していきたいと思います。
区役所とは“区民の役に立つ所”です。
だからこそ、そこで働く職員さんが気持ちよく最大限力を発揮できる環境づくりに取り組んでいただきたいと切に願ったのでした。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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