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今回は、前回の『多様性』を踏まえ、『世間』なるものについてワタクシ自身の体験を含めての考えを書いてみます☆
今回も恐ろしく長くなりますが、あまり読まれないようにわざと長くしているわけではないです、決して…多分恐らく。
【こんな生活を送っていました(幼少期)】
私自身の成育歴ですが、両親が世間体を気にするタイプの人間ではなかったためか、自由奔放に過ごしていました(ただ道徳にはうるさい親だったので、社会や他人様に感謝することと迷惑をかけてはいけないことだけは、しつこく言われた記憶があります)。
また、両親は『みんな』という言葉を異常に嫌っており、幼少期に私が『みんな持ってる』や『みんなやってる』という言い方をすると、『お前の言うみんなとは誰を指しているのだ?』と、本当に嫌なツッコミを受けたものです。
一つ覚えているエピソードがあるのですが、わが家はなぜか幼少期からテレビ鑑賞に制限がかけられていました。
それも、『ワクワク動物ランド』と『暴れん坊将軍』と『ハウス食品のスポンサーアニメ(フランダースの犬とか小公女セーラとかそんなの)』という、どうにも理解しがたい選定でしたが、とにもかくにも謎ルールのおかげで、世間や社会の流行や常識を意識せずに過ごせたのだと、今となっては思います(ドリフとかリアルタイムに観たかったけどさ)。
幸いにも、周囲の友達は帰国子女やらテレビよりマンガ派がいたりと多様なこどもが多かったため、流行を知らないことで特段いじめに遭う等はなく、ありがたい環境だったなぁと振り返って思います。
とにもかくにも、そんな環境で過ごしていたせいか、私は世間や常識というものに対してのアンテナが恐ろしく低いまま大人になっていきます。
高校生の頃は、きれいに投げ飛ばす姿に感銘を受け(まぁまぁ女性は興味ないであろう)柔道部に入ったり、高校3年生の進路時は職業差別なんてものを知らなかったためくいっぱぐれないようにと福祉の道を選択したりと、『(社会に迷惑をかけない範囲で)自分ができることをする』という生活を送っていました(福祉の道は、就職氷河期だったため高校の恩師が『これからの時代は女性も手に職を持つように』という理由だけで、福祉がなにかも知らずに選びました)。
こうして、強い想いもなにもないまま介護について学び国家資格を取得したワタクシですが、実際に仕事をする中で自分の知らない時代を生きてきた方々と話をすると、視野が広がるだけでなく時代の流れや当時の状況を教えてもらうことができたため、20代の頃の私にとって高齢者介護とは『人として当たり前のことをしてお金をもらえ、さらに知識も身につくラッキーな職』という認識であり、楽しく毎日を過ごしていたのでした。
【初めて世間を知った出来事から今まで】
こんな感じで幼少期から世間を知らなかった私ですが、大人になり社会で働くようになると、嫌でも『世間(常識)』なるものと接する機会は増えます。
その第一弾が『女性は結婚してこどもを産んで一人前(ただし、こどもができない時はその限りではない)』という常識でした。
今だから書けますが、もうね…高齢者介護に携わっていたから、『女性なんだから』という言葉は一般職に就いている方々の何倍もあったことと思われます(当時は明治大正生まれの方がゴロゴロいました)。
ただ、私が幸いだったのは、意見してくれる方々は『善かれ』でアドバイスをくれたことです。
そのためか私は『ひどい!これはセクハラだわ!!!』とか『女性蔑視!!!』とは全くならずに、『なるほど。結婚してこどもを産めば、それだけで一人前になれるなんて、なんてステキな制度なんだ』と考え、当時、同じ職場だった夫と結婚したわけです(素直と言えば聞こえは良いけど単純な人間だったわけです)。
ちなみに、同時にいただいた助言としては『こどもは1人産めたら3人産みなさい。1人だと親がつきっきりで世話しないといけないし、2人だとケンカした時に仲裁に入らないといけない。3人いれば放っておいてもこども達は勝手に育つから』というものでした。
ありがたいことに、結婚後、第一子に恵まれた私はいい気になって3人こどもを持ちます。
その後、第一子が小学校にあがる時をきっかけに家族会議を開き、一般的な夫婦の役割が逆転することが可決され、さらには、起業したり本区区議を担うようになりながら、現在に至ります。
【今までの生活で感じること】
…で、ですね。
ざっくりと書いたとおり、私自身はいわゆる『世間のあるべき姿(常識)』とかなりズレた生活を送っていますが、『女性だから○○』といった不便や不満を感じたことはないのです。
それは、私が鈍いだけかもしれませんし、周囲に恵まれていたためかもしれませんが、『女性だから』という理由で物事を捉えたり被害者意識を持ったことはないのですね。
もとい、常にゴールがあり逆算しながら生きていたため、性別云々より『どうやって実現するか?』しか考えていなかったというか。
…という前置きの上、男女平等なるものについて、ちょっと長くなりますが持論を述べます。
先ほど書いたとおり、私自身が『女性』や『子持ち』を理由に、仕事や付き合いを制限したことはありませんでした。
独立する前のサラリーマン時代も、(夫と協力しながら)普通に終電帰宅を週3~4回はしていましたし、力仕事はもちろん、お付き合いの飲食なども『女性だから』という理由で忖度されたことはありませんでした(たまに配慮しようとしてくださる方がおられましたが、お気持ちには感謝して割り勘にしていました)。
つまり、社会で生活する中で、社会が求められている役割を全うできるか否かというシンプルな判断で行動しており、与えられた権限の中で自分らしさを出せばよいと考えていたわけです。
そこに『女性だから』とか『男性だから』とかの性別は関係なく、人としてのあり方は共通だと思って過ごしていたわけです。
その上で、家事や育児に支障が出る時は、都度夫に『相談』して了承を得ながら進めていただけです。
この『女性だからという性別の被害者意識を持たない』ということはとても重要だったと、今振り返ると実感しています。
こういう話をすると『それは加藤さんの家だからできることでしょ』と言われますが、そういう話ではないわけで。
打算的なワタクシは、結婚しようと思った時から惚れた腫れたではなく、人として尊敬できる人(相方として人生を協力し合える人)という基準で結婚したり、家事が全くできなかった夫に対しては新婚の蜜月期間を使って一緒に家事をしながら手順を叩き込んだり(?!)、夫が気を利かせてしてくれた家事には一切クレームを入れず感謝の言葉をたくさん伝えるなど、自分が好きに動けるよう準備はしていました(本当に打算的な人間です)。
要は、自分がやりたいことを明確にして、それが実現するよう逆算しながら自分で環境を整備していくことが大切であり、(環境整備をする中で)相手がいる場合は、全てが自分の思い通りにはいかないということを知り、協力してくれる方々には感謝しかないということを腑に落として行動することをすれば、男性だとか女性かとか関係なく物事は進んでいくという感じです。
私の場合は、それがたまたま社会のニーズと一致していたためうまくいったというだけの話だと感じています。
大変な時や余裕のない時は、ついつい『私はこんなに頑張っているのに』と被害者意識が募りやすくなりますが、その選択をしたのも自分であり、嫌ならやめればよいのです。
掃除や洗濯が大変だったら回数を減らしてもよいし、食事をつくったりが大変な時があれば総菜を買えばよい。
言い訳をせず、やりたいことには全力で取り組みながら、全てを完璧にしようとするのではなく優先順位をつけて粛々と進めていけば良いと思うんです。
疲れたら自分にご褒美をすればよいし、自分を大切にしながら、同じように他人様も尊重する。
自分が影響を及ぼせない部分については、理不尽さを感じるけれど『じゃあどうする?』で自分の行動を変えるしかない。
シンプルにそれだけだと感じています。
…という考えがベースにあるのですが、振り返って今の社会を鑑みると、昨今見かける男女の対立や分断って、主として女性側にある種の『被害者意識』と『図々しさ』からきていると感じています。
※すべての女性ではなく、いわゆる女性の地位向上とか主張する方々や、いわゆるフェミニストと呼ばれる方々です。
やってもらって当たり前(だって今まで差別されてきたんだもん)
配慮してもらって当たり前(今まで虐げられてきたからね)
力仕事は『男性が担うべき』、残業は『家庭があるからできません』、適齢期だと食事に行けば『男性がごちそうして当たり前』etc
権利は平等を主張しつつ、責任の話になると『女性』を前面に出す。
恐らく、長年社会で女性が虐げられていたという教育を受けているが故に、平等が謳われるようになった現代では、今までの不満が爆発するかのようにちょっとでも理不尽さを感じると『男性はずるい』『女性は不利だ』と主張するのでしょう。
このダブルスタンダードに気づいていない女性が、いかに多いかと感じています。
そんな中、SNSで起こった『AED事件(⁉)』により、ついに一部の男性が怒りの頂点に達します。
その出来事と、それを受けて改めて『男女平等』や『多様性』については、今回も長くなりすぎたため、次回に書きたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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